通ず

1.美知

 この道は、あなたに通ず。

 あたしのベッドからあなたは無言で抜け出して、急ぐ様子もなくでも留まりたいようでもなく、出会った頃からずっと履いているスニーカーをそっと履いて、殴ったら破れちゃいそうな木製のドアを静かに抜けて、ドアに備え付けの寒い風が吹き込む新聞受けにあたしの部屋の合鍵を滑らすように落として、あたしの生活から去って行こうとする。あたしはベッドで眠ったふりを続けながら息を殺して待っている、あなたがやっぱり戻って来るのを。でもそんなことは起こらない、あなたがあなたの決めたことを覆さないことをあたしは知っている。

 あたしはベッドを抜け出して、あなたを追う。よれよれのスエットとあなたのお古のTシャツを着て。大家さんの家の横を抜けて。長髪を後ろで束ねた、ドアに鍵を掛けないお隣さんの横を抜けて。一本一本手作りのギター工房の横を抜けて。あなたと初めてキスした滑り台のある公園の横を抜けて。いつもお客さんがいなくて主人は退屈そうにテレビばかり見ている、いつか冷やかしで入ってみようかなんて言っていたのに結局一度も行かなかった中華屋さんの横を抜けて。下手なピアノの聞こえる青い屋根の家の横を抜けて。子供たちの声が空中で張り裂ける保育園の横を抜けて。あなたと二人でソファを買ったホームセンターの横を抜けて。このまま駅前に辿り着くまであなたに追いつけなかったら、あたしはパジャマノーメイク寝起きで大勢の人前に姿を晒す。それでもいい。あなたに会いたい。あなたはもうこの星のどこにもいないのかもしれないと思って、泣きそうになって、あなたの後ろ姿、あなたを呼び止めて、あなたは振り返って、あなたは困った顔をして、あたしの走ったこの道は、あなたに通じている。

 行かないでと言いたかったのに、もう少し一緒にいてと言いたかったのに、仕事なんて休んでよと言いたかったのに、言いたかったことは一つも言えなかった。もう一度チャンスをちょうだいなんて締まらない台詞を吐いて、うん、分かったからとりあえず落ち着きな?風邪引くから家帰んな?後でメールするからってあなたは言い残してやっぱり去って行った。あたしのこの、必死なあたしを、会社にたかだか五分だか十分だか早めに着くためだけに置いて行くなんて、そんなの酷いけどあなたが好きで、あたしはただの大馬鹿野郎だった。

 この道は、あなたに通ず。

 今でも時々あなたのことを思い出して、その度にあたしは思う。あたしが歩くこの道が、あの時のあなたに通じていることを。あの時のあたしが歩いてきた道が、今のあたしの足元になっていることを。



2.道隆

 この道は、あなたに通ず。

 満ちればあとは欠けるだけの月へと続く未知の道を道なりに道行き、俺は一人ぼっちを噛み締めて、氷の道を踏み締めた。今振り返って元の道を戻れば、まだきっと君があそこで待っている。校門の前で震えながら、あんまり似ていない母親が車で迎えに来るのを待っている。いらない気遣い担任の、迎えを呼べよの一言で、俺は君と一緒に帰れなくなって、遅くまでやりたくもない仕事を続けたのは君とずっと一緒にいたかったからで、畜生って心の中で毒づいて、いや俺は一人で帰りますんでと意地張って、でも今戻ればまだきっとあと少しだけ君といられるはずで、でも俺は戻る機会を失って、昼間とは別物みたいに未知の夜の道を一人で歩いている。呼吸も凍る視界も凍る、夜も空も時間も全部凍りついてる。世界が驚くほど澄み渡っていて、俺だけが試された不純物みたいにそこを突っ切って行く。

 君が俺をどう思ってるか知ってて、君が友達と話してるのを聞いてしまって、それならどうして君は俺と一緒に帰らないのって勝手に頭に来て、勝手勝手超勝手それはすげー勝手めっちゃ勝手勝手勝手勝手、心からマジで勝手、自分で自分に気持ち悪ってめっちゃ引いて、もしかしたら俺が誘うのを待ってたのかななんて、いやそんなん関係ねーから俺と一緒に帰ろって、危なくなんかないよだって俺がいるし、いや俺がいるからかえって危ないとか余計なお世話で何心配してんだよって、俺らと同い年の頃に絶対恋愛なんかしてなかった担任のあいつに俺らの何が分かんのって俺が強く、主張してればよかった。主張してればよかった。

 真っ直ぐ月に向かって歩く。この道は月に続いている。宇宙飛行士になんかなれなくったっていい。この道が月に続いてるから。いや別に目指してないんだけどさ。そんなん考えてたら馬鹿らしくなってきちゃって、気付いたらお月様背にして君に向かって歩いてて、校門前の君に向かって歩いてて、この道は、早歩きすらできない凍りついたこの道は、あなたに確かに通じている。

 誰もいない校門前で君がさっきまでそこにいたはずの体温だけでも感じたかったけど、冷たい冬がそんなことすら許してくれなくて、君を連れ去ったテールランプすら見つけられなくて、担任が車で通りかかって窓開けて早く帰れよーって余計なお世話、さよーならーって俺は大きな声で元気よく、叫ぶ。俺は元来た道をまた月に向かって歩いて行くんだけど、君は時速五十キロだか六十キロだか七十キロだかで遠ざかって行くんだけど、この道は、あなたに通ず。

 それだけでよかった。



3.みちる

 この道は、あなたに通ず。

 白線の上を目をつぶって歩いた。私の家への帰り道。あの頃の私たちの道はいつも、誰も知らない美しい未来へと続いていた。あなたは少し先を歩いて、私は白線の上を目をつぶって歩いた。目を閉じていても、あなたが近くにいるって分かってた。私は目をつぶったまま真っ直ぐに歩いて、得意気にあなたに向かって歩いた。誰も何かを始める時に、それがいつか終わることを考えたりしない。誰もが何かを終える時、それがどう始まったかを思い出そうとして、でも心は?あの時の気持ちはどこへ去ったのって、体の中を引っ掻き回したりする。目の前に美しいものがあって、それに触れて、でももう戻っては来ない。

 何年か後になって、私はあなたにも私にも馴染みのない街であなたを見かけた。あなたの隣には私の知らない誰かがぽっかりと収まっていた。何の気なしに私はあなたの後を追った。ホームセンターを抜けて、保育園を抜けて、青い屋根の家を抜けて、中華料理屋を抜けて、小さな公園を抜けて、ギター工房を抜けて、ドアが少しだけ開いた家を抜けて、こじんまりした家を抜けて、あなたが闇に消えるまで、どきどきしながら呼吸を殺して、あなたを追った。何も起こらなかった。あなたが突然振り向いて私に気付くこともなければ、電話がかかって来て、ごめん、急にごめん、最近どうしてるかなって気になって、急に電話しちゃってごめん、なんてこともなかった。何も起こるはずがなかった。

 もしもあの時、あなたと二人で遅くまで学校に居残って仕事したあの時、あなたと一緒に帰っていたら、何かが変わっていたのかもしれない。あの後、でもちゃんと結局、高校生の私たちは順調に付き合って、大学生の私たちは順調に一緒に過ごして、社会人になった私たちはいつしか気持ちが移ろって変わって離れてしまったけど、もしあの時、あの冬の寒い日ににあなたと一緒に帰っていたら、違う結果が待っていたのかもしれない。有り得たはずのもうここにはない何かのことを考えている。「失恋」という言葉には、対義語も類義語もないのだわなんて考えてみる。私の足元にはアスファルト、その上には白い線が伸びていて、この道は、あなたに通ず。

 白線の上を目をつぶって歩いた。私の街を抜け出して、その道はどこか遠い所へと繋がっていった。ありがとうもさようならも言葉にすると全てが遅くて、泣きそうになって立ち止まりそうになって、一人で帰る時も私は、白線の上を目をつぶって歩いた。この道は、きっとあなたに通じている。見なくても分かる。あなたもきっと今どこかで誰かと、この道を歩いている。

 しゃがんで誰にもばれないように、そっと道に触れた。