その夜


彼は彼女の帰りを待っていた。その夜、
彼女は家には帰りたくないと思っていた。その夜、
彼女も彼と一緒に彼女の帰りを待っていた。その夜、
彼は彼女を彼女に紹介するつもりだった。その夜、
彼女はそれを察して、家には帰りたくないと思っていた。その夜、
彼女は彼の家で彼女の帰りを待つしかなかった。その夜、
あまりにも帰りの遅い彼女を心配して、彼には段々落ち着きがなくなり始めていた。その夜、
彼女は彼に「日を改めようか?」と声をかけたが、彼は、「いや、いいんだ、もう少し待ってくれないか?」と答えた。その夜、
彼女は塾が終わった後真っ直ぐ帰らずに、ファストフード店や家電量販店で時間を潰していた。その夜、
電話にも出ない彼女がどこにいるのかはっきりさせるために、彼は嫌々ながらも彼女に電話をかけることにした。その夜、
彼女のもとに彼から電話がかかってきたが、それは二人が別れてから初めてのことだった。その夜、
「あの子は君の所にいるのか?」と彼が聞いた。その夜、
「いいえ、ちゃんと決めたでしょ、曜日をちゃんと」と彼女は答えた。その夜、
「もしあの子から連絡があったら、僕にも連絡をくれるか?」と彼は頼んだ。その夜、
「私、そっちに行きましょうか?」と彼女は気遣った。その夜、
「いや、今は…」と彼は言い澱んだ。その夜、
「私、帰るよ」と彼女は彼に言って、帰り支度を始めた。その夜、
「いいんだ、いてくれ」と彼はなかば脅しつけるように言った。その夜、
彼女は彼の所に誰かがいるのを察した。その夜、
「すまない、怒鳴ったりして」と彼は彼女に謝った。その夜、
彼女は電話をさっさと切って出掛ける支度をし、彼女も二年前まで住んでいたマンションへ車を走らせた。その夜、
彼女は深夜まで営業している書店の前で立ち止まった。その夜、
彼はその日が最後の出勤日で、家に帰れば荷物は明日の引っ越しに向けてまとめられており、トラックは朝の十時にやって来て彼の荷物を彼の田舎へと運ぶ手筈になっていた。その夜、
彼女は書店の自動ドアを抜けて店内に入り、自分の身長の倍はある本棚の並木道へと足を踏み入れた。その夜、
彼は彼女のような年頃の女の子がこんな時間に店に来るなんて、と不審に思った。その夜、
彼女はずっと欲しかった本が一冊、本棚に収まっているのを見つけた。その夜、
彼はなんとなく彼女から目を離さなかった。その夜、
彼女の財布には充分なお金がちゃんと入っていた。その夜、
「待って」と彼は彼女に声をかけた。その夜、
彼女はうつむいていた。その夜、
彼は彼女のカバンからスリップが入ったままの本を取り出した。その夜、
彼女は見慣れたマンションの一階でオートロックの自動ドアの横のテンキーを叩いた。その夜、
彼は、なんだあいつ、やっぱり来たのか、面倒なことになった、と思った。その夜、
彼女は本当に帰りたいと思っていたが、もはや遅いということが分かった。その夜、
「久しぶり」と彼女は言った。その夜、
「ああ」と彼は答えた。その夜、
「はじめまして」と彼女は言った。その夜、
「ああ、はい、あの私、この人の」と彼女は答えた。その夜、
「存じております」と彼女は遮るように答えた。その夜、
「犯罪だからやめてほしいんじゃない」と彼は彼女に告げた。その夜、
彼女には、彼が言っていることの意味が分からなかった。その夜、
「こんなかわいらしい表紙だけど、これを書くにも命をかけて時間を削って何かを犠牲にして、そういう人がこの本の向こう側にいるって、それを忘れて欲しくないんだ」と彼は続けて言った。その夜、
彼女はなぜか、自分の父と、別れた母と、まだ見ぬ父の恋人のことを思った。その夜、
「これは君にあげる」と彼は言った。その夜、
彼女は首を横に振って、お金は持っていますと伝えたかったが、言葉が出てこなかった。その夜、
「いいんだ、君に買ってあげたいんだ」と彼は言った。その夜、
「あの子が帰ってくるまで私もここで待つわ」と彼女は言った。その夜、
僕は小説家になりたかったんだ、でも何にもなれなくて、この本屋も今日でやめるんだ、と、不意に彼女に語りたくなったが、彼はやめた。その夜、
三人とも、三時間にも思える三十分を無言で待った。その夜、
ドアが開いた。その夜、
彼女が帰ってきた。その夜、
彼は彼女の頬を平手で打った。その夜、
彼女は彼女を庇うように抱き、彼女は横でそれをただ見ているしかなかった。その夜、
彼女は母に抱きしめられながら、でもお父さんは私を叱ってくれるから、だから私はお父さんと一緒にいるのよと母に言いたくなった。その夜、
しばらくして落ち着いて、彼女は帰り、彼女は彼女に「はじめまして」を伝えることができた。その夜、
彼女も帰った。その夜、
彼と彼女は二人で遅い夕食を取った。その夜、
彼女は書店であったことを正直に彼に告げた。その夜、
彼は今度はなぜか彼女を叱らなかった。その夜、
明日一緒にちゃんと、お金を払いに行こうと彼女に言った。その夜、
彼らは深い眠りに就いた。



~幕~