世界と十月を渡る黄金色の田園の風

十月には死の匂いが漂う。ような気がする。

友達が死んだ。祖父が死んだ。
母の命があとわずかだと知った。
故郷では稲穂が黄金色に輝き、収穫の時を迎える。

十月になるといつも死のことを考える。いつも考えてはいるが、十月になると自分の中にそれを強く感じる。より強く。盆や正月を避けて十月に実家に帰るのがこの十年ほどの、自分の恒例になった。東京から新幹線に乗って山々を抜け、故郷に近付くにつれ、窓外には刈り入れの終わった田や今まさに頭を垂れる薄くかすれた黄色の稲穂が居並ぶ田が、それらを膝元に抱くように聳える山から吹き降ろす風に揺られて、さわさわとある。積み上げられた稲穂の塊がちらほら、こんもりと立っていてまるで田んぼの精のようだ。弁当を食いお茶を飲み、もっと気が許せば缶ビールを飲んでいる僕は観光気分で、そうやってぼんやりと、眠っているような起きているような状態で十月のことを考えている。

ものを書いていると、そのために何かを考える度に、自分はやはり北の人間なのだと感じてきた。北国で生まれた、初雪の降る頃に生まれた、寒い日々に幼少を耐えた、そういう人間なんだなと感じる。そういうものに親近感を覚える。書くものの端々や一つ一つに雪を感じる。最早故郷で過ごした期間よりも多くを東京という大きな街で過ごし、そう考えるともう自分は東京の人間なのかもしれないと思い、それでも自分を培った土と水は結局あの小さな田舎のものであるという気持ちもなくなることはない。

面白いもので、必ずしも生まれた土地や育った土地と、「その人がどこの人間なのか?」が一致するとは限らないと僕は思う。例えば山形で生まれた人間が自分の中に南国の何かを感じることもあるだろうと思う。海外のある国で唐突に、「ここは私だ」と知ることもあるかもしれない。自分がどこの人間なのかを探るのも面白い。そしてそれを決めるのは他人ではなくあなたの直感であり、あなたが自分をそこの人間と思ったり感じたりしたら多分そうなのだろうと思う。一生自分の場所を知らず、訪れることもない人もいるかもしれない。大切なのは探し続けることなのではないかと思うが、ここだと決めて骨を埋めることにも覚悟が必要で、それはそれで尊いと感じる。

僕は生きることは旅をすることだと思っている。始まりがあって終わりがあるもの、それは全てある種の旅だと思う。自分がどこから来てどこへ向かうどこの人間なのかを探し続けるのが生きることなのだと思う。そして同じく、物語も旅であると思っている。なぜならそこにも必ず始まりがあって終わりがあるからである。必ず最初のページが存在する。最初の台詞やト書きが必ず存在し、それらは最後のページの最後の言葉や最後の台詞や最後のト書きで締め括られざるを得ない。その先の物語をどうするかは読む人や観る者に委ねられるが、とにかく物語は一旦始まったらいつか終わる。

そうやって点と点を結んで線となる旅のことを考えながら僕は同時に、繰り返されるサイクルの中で訪れるある季節のことを考えるようになった。僕は最近自分のことを、十月の人間だと感じる。誰にでも場所があり、誰にでも季節がある。あなたは考えたことがあるだろうか、自分が何月の人間なのかを。僕は北国の十月だ。多分山形か福島辺りの十月の人間なのだと思う。

フォークナーが『八月の光』を書いて、クリスティーが『春にして君を離れ』を書いて、ブラッドベリが『十月はたそがれの国』を書いて、なんだかそういうタイトルの季節が、彼ら自身を表しているような気がしなくもないような、とはいえ前者の二作は読んだことがないんだけど、なんだか勝手にそんなことを考えている。生まれた月と関係があるわけでもない。もしかしたら単純に好きな季節の話かもしれない。体調のバイオリズムと関係があるのかもしれない。その辺りのことはよく分からないしそれを追求するつもりもないが、とにかく僕は十月に死の匂いを感じ、自分は北国の十月の人間だと感じる。いつか移り変わって例えば、北欧の四月やメキシコの七月になっているかもしれないが、少なくとも今はそう感じる。そうでありたいと思っているのかもしれない。

僕は作家なので、色々な作品を書く。その時に当然物語の季節のことを考える。戯曲であればなおさらこれは大事な作業で、舞台美術や照明、音響に大きく関わってくるからだ。春のことを書くこともあれば冬のことを書くこともある。夏のことを書くことはあまりない気がするが、なくはない。自分にとって自分に近しいと思う作品を書くと、大抵それは十月頃の話であり、冬に近い季節を書いていることが多い。

十月になると自分の心のドアのような窓のような部分を、寂しい風が吹き抜ける。世界や日本や日本のある街や、東京や山形やその他の場所や、誰かの側や誰かと誰かの間や、そういうどこかを吹き抜けた風が僕の体を吹き抜ける。そういう風がなんらかの物語を運んでくる。十月の風はことごとく黄金色の田園を吹き抜けている。僕が感じる十月の風は必ず、稲穂の上を通り過ぎている。そういうことを感じる。そしてそういうことを言う気分にさせるのもまた十月。来月この文章を読み返した時、全てをなかったことにしたくなるかもしれない。そういう季節なんだと思う。

あの人を奪っていった時、十月は何を考えて横たわっていたのだろうかと考える。全ての死が十月に紐付けられる。全てのセンチメンタルな瞬間が十月であったような気さえする。収穫され刈り入れられ命を終えて、その命がまた別の命を生かす。無限のループの始まりと終わりの点であるように感じる。不意に泣きそうになり、唐突に夜、外に出て歩き続けたくなり、何かを始めようとしても何も手につかず、ぼんやりと窓の外を眺めていたりする。不安定になった自分が三十七歳から二十七歳や十七歳になったように感じる。必死で覆い隠した若さや青さや愚かしさが拭い難く側にある。

この十月をまたいつか思い出す。懐かしい感情や新しい感情と共に思い出す。懐かしい人々や新しい人々と共に思い出す。その営みや巡り来ることを毎年のように感謝するかもしれない。恐れるかもしれない。死のことを考え、同じくらい生きることを考えるだろうと思う。取りこぼしたこと、取り逃してしまったことを考える。無視したこと、面倒に思ったこと、怠ったこと、全ての後悔、どうすることもできなかったことども、過ぎ去った全てのこと、そういうことを十月と共に思い出す。優しくなれない魂を連れて、もがき苦しむ水中の日々、時折訪れる息継ぎの瞬間、それらが誰かの救いであればいいと思い、分厚い鋼鉄のドアを素手でノックしながら、僕の十月を過ごす。


そうやってゆっくり歩いて行く。誰かのことをたまらなく愛しく想う。その誰かといつか出会う。風が撫でるように世界を渡る。