繰り返し考えること。

どうも、須貝です。

長く考えていると、もちろんまだまだ考え足りないけれど、同じ考えに帰っていくことがある。繰り返し同じことを考えていたりする。

三十五年生きる中でまともに考え始めてからせいぜい十五年か二十年ってところだと思うんだけど、何度もその考えに帰ってくるからにはそれだけの理由があるのだろうと思う。自分の考え方の匂いというか癖というかこびりついた何かがあるのだろう。生まれ育ちかもしれないし、遺伝子が命じているのかもしれない。自分が日々を過ごす中で学ばせていただいたこともあるのだろう。出会った人々から受けた影響もあるだろう。

そんな考えを今日は文字に起こしてみます。



・夢や目標がないことは頑張らない理由にはならない。あるに越したことはないが、それが全てではない。夢や目標があることやその内容がその人を評価するわけではない。実現できたかどうか、そのために何をしているかが評価の対象になる。夢を語るだけで満足してはならない。夢を語る人を夢があるという理由だけで評価してはならない。


・夢や目標がなくても構わないと思う。なくても生きていくことができるし、偉業を成すことはできる。しかし、問題意識は常に失ってはいけない。世の中の何が問題で、どう変えなければいけないか、そのために社会はどうなるべきで、そのために自分に何ができるのか、それは常になければいけない。


・「あなたが何になりたいか?」だけを要求する社会はあまりにも個人的であると思う。「どう思われる人になりたいか」、「周囲に何を与えられる人間になりたいか」という質問も同様にあるべきだと感じる。


・考えないでやる練習や稽古は身にならない。


・会って話したことのない人を評価しない。もし意見を述べることが求められたとしたら、その意見が憶測であり伝聞であることをしっかり伝えなければいけない。


・答えを聞くとしたら、必ず自分で考えて自分なりの答えを用意してから聞く。準備のない質問は回答者からの知識や知恵の単なる搾取である。質問をするからには、対価として回答者にも何か得るものがあるべきである。


・打ち合わせ一つとっても、そこには双方にプロフィットがあるべき。


・良い演出家は良い質問者である。


・この苦しみは生まれてきたゆえの、この喜びは生まれてきたゆえに。


・まず気付くことが大事。気付かなければ問題が何か分からない。問題が分からなければ対策が立てられない。対策が立てられなければ解決しない。問題を把握せずに出すアイディアは発想の無駄遣い。


・観察が最初。まずは見ること、知ること。


・作品を作っていると、この苦しみは自分だけのものであると感じる。同じような職業や立場にある人はたくさんいるが、この作品を作るこの苦しみは世界で僕にしか理解できない。僕だけがこの苦しみの最前線に立っている。だからこそ自分の感覚を信じてあげなければいけない。


・同時に、その苦しみが自分だけのものだからといって、自分が誰よりも偉いわけではないと胆に銘じなければいけない。他人にとってはどうでもいいことであることも忘れてはいけない。


・そもそも私たちは平等ではない。だからもし我々が寄り集まって社会を形成するのであれば、その社会は不公平と闘う社会でなければならない。


・社会がもしそうでなければ、変えるか離れるか選ばなければならない。


・男は性欲とクソが詰まった肉の塊。


・会話劇は足から。自然な演技は必ず足から始まっている。


・職業で金銭を得るには、専門家でありマニアでありオタクであることが必要になってくる。


・過去の自分を思い出したくない。前向きな理由だけでなく、シンプルに昔の自分がクソ野郎だから。一秒を過ぎるごとに一秒前の自分がクソ野郎になっていく。今ここにいる自分だけが最良の自分で、最高の自分は未来にしかいない。


・その考えの中でしかし、誇ることができる自分が過去にいたとしたら、その自分に感謝しなければならない。そしてその時周りにいた人にも、その境遇を与えてくれた人にも、深く感謝しなければならない。今の自分を今に導いたのは自分を含めたその人たちだから。


・昔を懐かしむだけの飲み会からはすぐに帰りたくなる。昔の話しかできない人間関係は切りたくなる。


・最優先は子供。全てが子供を中心に進むべき。


・足るを知る。


・簡潔に、正確に。五歳の子供にも八十歳の老人にも分かるように。その道三十年の専門家に誤りを指摘されないように。日本語の分からない人にも伝わるように。


・ゆっくりと、確実に。


・ある「静けさ」を生み出すために作品を作っていることが多い。それが特徴に現れるのかもしれない。静かであること。ある音がやむことである音が聞こえてくること。ある音が響くことである音が鳴りを潜めること。それは無言や無音とは限らない。何かが語られていても、そこに静けさがあることを目指すことがある。強いものは静かである。偉大なものは静かである。喧騒から切り離されている。素晴らしいものを前に僕らは黙らざるを得ない。強ければその叫びは静かである。誰かが叫んでいるということはもしかしたら、誰かが黙ってその言葉を聞いている静けさも同時に存在しているのかもしれない。静かであること。その静けさの中に、いつまでも身を置きたいと感じること。


・結局、やってみないと分からない。


・自分が行う演劇のワークショップは、自分が十年かけて気付いたことを四時間で消化してもらう、もしくは一年かけて気付いてもらう、というようなことをコンセプトにしている。それは、この世界が新しくなる度に前に進む世界であるならば、僕が十年かけたその時間を、次の誰かが費やす時にもっと短い時間で体得できることを目指していくべきであるから。なのだが、結局そうやって短い時間で体得できたとしても、おそらく僕の十年分に匹敵する何かは自分で経験しなければ血肉にはならない。十分で得た知識も、十年かけないと理解できないこともある。なので、結局やってみないと分からないのだと思う。


・ワークショップや演出で自分より経験が浅い方とご一緒する時、何かを伝える際に、今日挑んで達成できること、一晩考えて明日達成できること、挑み続けて初日に達成できること、千秋楽まで挑み続けて一回か二回達成できること、一年経って達成できること、十年経って達成できること、それらの全てを含んでいることが理想であると考えている。


・今私がうまくいっていないとしたら、それは誰かに問題があるのかもしれない。社会に問題があるのかもしれない。でも、決して人のせいにしない。全て自分の努力次第で解決することができると考える。


・今私がうまくいっているとしたら、それは誰かのおかげであり、社会のおかげである。自分の努力もあるのかもしれない。でもあくまでその全てが幸運にも与えられたものであり、いつか失われ得るものであると胆に銘じる。


・私は火を運ぶ者である。最後の火を運ぶ者である。消えゆく言葉を運ぶ者である。私が食い止めなければ止まらない流れがある。私が学ばなければ失われていくものがある。私は火を運ぶ者である。最後の火を運ぶ者である。





今、世の中がざわざわとしています。今だからこそ言わなければならないことと、今言ったところで、今までの社会がその問題を既に内包していたのだから、それがこういった非常時に露わになっただけなのだから、時既に遅し、ということの二種類があるような気がします。それらを見極めることが必要なのだと感じます。