最近の私。

どうも、須貝です。


走りに行くつもりだったのに雨が降ったので時間ができました。何か文章でも書いてみようと思います。今日は晴れてるから走れるかしら。お久しぶりでございますね。

最近の僕はと言えば、5月に『祖国は我らのために』、7月に『そでふりあうも』、そして8月末に『純惑ノ詩』を終えました。今はもう初日開いてますが、コノエノ!と7%竹の合同公演、『スタディー・イン・ニュージーランド』の演出協力を、10月に旗揚げ団体mat;の脚本で『Breathe』という作品を、10月に岡田あがさと太宰治の作品をもとにしたリーディング『富嶽百景/きりぎりす』の準備、とまぁ毎日シャキシャキ演劇やってます。

演劇を安定した仕事にするために、このくらいのペースを普通にしたいなと考えておりまして、ちょっと無茶もあるかなと思いながら、でも一つ一つのクオリティを落とさずになんとかやっていけないかなと、試行錯誤の毎日、トライ&エラー、PDCA、一進一退を繰り返して、昨日の自分や1時間前の自分や1分前の自分より先に進んでいるように、生きていきたいなと思ってます。



この仕事をしていて一番嬉しいこと、誇らしいこと、他の仕事とはちょっと違うこと、それはたくさんの人に出会えることだと思います。2017年に入ってから演劇関係の人たちと何人くらい新しく出会ったかをざっくり数えてみたのですが、恐らく80人くらいに上るかと。今年は史上最大人数と1年間で出会うことになりそうな気がします。去年末の忘年団から数えたら100人いっちゃうぜ。

5月のオーストラ・マコンドーで既に30人くらいと初めましてでしたからね、そこから順調に数を伸ばし、現時点で80人くらい。あと3ヶ月でどのくらい会えるだろうかとウキウキしております。友達100人できるかな。

営業や取材などで毎日色んな人に会う、という方は恐らくいらっしゃると思いますが、新しく出会った人と共に創作し、2ヶ月ほどを共に過ごしたら解散する、という短期間の、濃い、特殊な関わり方というのは、演劇や映像の世界ならではのものなのではないかなと思います。

元来が大変な飽き性なので、かつ直情的なので、この、短期間の濃い付き合いというやつが自分の性に合っているようです。変わり続けなければ、動き続けなければ死んでしまう、マグロのような生き方をしています。



7月のブラシュカpresents『そでふりあうも』では久々に演出だけという形でお仕事させていただきました。自分の演出経験のなさも感じましたが、やってきたことが実ったようにも感じました。

作品の骨子はやっぱり脚本だし、肉体は俳優だと思うので、それをいかによく見せるかを考えなければいけない。脚本というレシピと俳優という食材をどう料理するか。自分らしさというものをあんまり考えてなくて、ただ美味しくするにはどうしたらいいかを考えていました。演出家って報われない時間も長いけど、報われた時に凄く嬉しいんだなと思いました。

8月の野生児童も演出のみの参加で、また現場の様子は違ったんだけど、これはこれで勉強になりました。もっと舞踊とかオペラとか観なきゃなぁと思いました。演出っていう意味であればもう大抵のことを先人たちがやってくれてて、それを勉強するだけでプラスになるのにそれをしないのは怠慢だなぁと感じたというか。オペラを生で観てみたいな。

脚本に関してはどうしても自分の考えや癖のようなものが出るので、なんでも書きますよ!とは言えないこともあると思うけど、演出に関してはなんでもやってみたい。どんなものも挑戦したい。演出補佐とかドラマトゥルクもとてもやりたい。困ってる人いたら是非相談してください。



ちなみに『グリーン・マーダー・ケース』のDVDできました。近日中に通販できるように整えます。『祖国は我らのために』、『そでふりあうも』、『純惑ノ詩』もDVDできるそうです。脚本担当した『巣穴で祈る遭難者』、脚本・演出を担当した『リバース、リバース、リバース!』もDVDできたそうです。見逃した方は是非。



ワタリウム美術館で開催中の『Big Sky Little Moon』を観てきました。

なんとなく、個人的にグッとくるものがあって。バリー・マッギーも好きだけどガンで亡くなった彼の奥さん、マーガレット・キルガレンも凄く好きだったから、彼の今の奥さんのクレア・ロハスのことも初めて知って、勝手に、夫婦で活動してて素敵だなと思ったり。多感な時期に見てたから、当時の苦しかったこととか辛かったこととかも思い出して。

前の展示が、ワタリウムでの、個展が2007年なんですね。僕は大学卒業した年で。何一つ上手くいってなかった。もがいていたのを覚えています。できることをただやっていくしかなくて、好きな子にもフラれて、あまりいい仕事もできなくて、荒んでた。くすぶってた。その中で箱庭円舞曲や柿喰う客やホチキスの皆さんと会えて、本当に良かったと思います。今、21とか23とかそういう子に会うと、この子達の力になりたいと思う。当時の自分が言って欲しかったことを言ってあげたくなるし、当時の自分が直面したことにちゃんとぶつからせてあげたい。歳取るってそういう責任を負うことだと思うから。

展示の話に戻るけど、彼が今作るものの変わらなさと落ち着き、確実に育っているものなんかを感じ取れて、良かった。10年前は、美術館の前の通り(外苑西通り?)を隔てた建物にも彼の絵が描かれてて、クールだった。今回はそういうのはないけど、美術館の壁に直接描かれた作品は終わったら白ペンキで塗り潰されちゃう。今だけ。最近は美術館も写真を撮っていい所が増えたようだけど(これ、勘違いしてる人が多いみたいだけど、全部じゃないからね。大体どの美術館もハウスルールがあるから、美術館ごとに確認しましょう。「他の美術館では」、とか「アメリカでは」、とか「ルーブルでは」とか言うのははっきり言ってアホですよ。バカにされますよ)、僕はやっぱり馴染めなくて、忘れることにも意味があるような気がする。10年前の展示の内容はほとんど覚えてないんだけど、でも良かった記憶はあるんだ。

後述しますが、青山に能を観に行く流れで、空いた時間をなんかに使おーと思ってフラッと調べたら今展示中なのを知って。そういうのも良かった。

10年後に自分は何を作っているのだろうと思った。世界や社会や日本が変わる中で何をやるのかな。何をやるべきなのかな。どうせ誰にも求められないことをやっているのだろうが、自分としては必要だと思うことをやっていて欲しい。



というわけで、青山の銕仙会さんに能を観に行ってきました。カッコよかったっす。確か子供の頃に一回能は観てて、その時何やってたかは全然覚えてないんだけど、確か女性面のなんかだったんだよなー(うろ覚え)。分かるわけもなくてさ。

成田美名子先生の『花よりも花の如く』をちょろっと読みまして、それで銕仙会さんの話を巻末でされてましたもんですから、調べてすぐに参りましたのですよ。

演目も『敦盛』だから分かりやすいかなぁと思って。うーんやっぱ、勉強になった。素人だけど、なんとなく入ってくる音声と入ってこない音声があるのだなぁと思ったり、敦盛の舞がとにかくカッコよかったり、面をすることの意味を考えたり、とにかく色んなことを考えて感じました。今後も観に行きたいっす。

会場で8月にご一緒した時田さんとお会いしたのも驚きでした。



「投資する」という考えが最近薄い気がする。若い人だけでなく。育てるというか、今後のために、今結果が出なくてもやることの意味が薄れてきてしまっているような、今必要なことさえこなしていけばいいといったような、そんな感じ。失敗が許されなくなってきているような。

誰かに教える時、答えを用意せずに質問してこられることが本当に多くて、正直、がっかりすることが増えました。ただ、教えて?ではずるいと思うのです。自分のアイディアや気付きにもお金がかかっていて、その考えを瞬時に出せるようになるまでに多大な時間と労力を費やしていて、それをただ一方的に搾取されるのは我慢ならんのです。

質問するのであれば、「今こうやってみて、ここが問題だなと感じたのでこうやってみようと思うのですが、どうでしょうか?他にいい方法があれば助言いただけますか?」なら納得。「今の私どうでした?」では、まず君の何を僕は見なきゃいけないのか、どうして欲しいのか、どうしてみたのか、どうなりたいのか、がさっぱり分かりません。全く発展的じゃない。僕は君専属の演出家じゃない。もちろん全員を気にかけて全員をよく見るように努力はしているが、それではあまりにも不公平だ。悔しかったら僕が君に演出をつけたくて仕方なくなるようなプランを持ってこい。そうしたら話しかけられるまでもなく君に話しかけるから。もしくは安心して放って置くから。

他人に判断してもらわなければ不安定な程度の自分を、後生大事に抱えるな。そんなもん捨てちまえ。もしくは勝手に安定させろ。全力でサポートするから。君がゼロだと僕の仕事はないんです。君がプレゼンしないと。

同じ流れで、今の自分に必要なことばかり追究しても、意味がないとは言わないけど空しい。今は全然生かせないけどいつか役に立つな、来年使えるな5年後に使えるな10年後に使えるな、といった視点で考えていない。そういう方とご一緒すると、この人一生これで食っていくつもりがないのだな、と感じることがある。少なくとも5年後はまだやってて欲しくて、そうでないとあまりにもすぐに無駄になってしまうから、単に空しい。心から空しく感じます。

若い方の全てにすべからく、あなたたちの5年後や10年後を楽しみにしながら仕事をしているのです。自分も10や20上の方に、そう感じながら接して欲しい。自分を楽しみにして欲しい。そうでないといつまでも変わらない。



何度もここで話してる気がするけど、政治家は僕らのためになんでもやってくれる人じゃないし、彼らにおんぶに抱っこで国を良くしてもらえると考えているようなら大きな間違いだ。

国を良くするのはあくまで僕ら。その調整役、もしくは僕らが頑張れるようにストレスのない社会を作るのが彼らの仕事。だから国が良くなっていない、ともしあなたが感じるのであれば、それは彼らのせいだけではなくて僕らのせいでもあると思います。

ちなみに僕は良くなってると思う。不満はあるけど、良くなってると思う。

マスコミが言う「良くないこと」を鵜呑みにし、一緒になって批判してストレスを解消し、興味がなくなったら別のことに移ってその後結局どうなったかを知ろうともしない。それで国が良くなるなら逆にびっくり、陰で本当に頑張っている人がいるのでしょう。僕らが自覚的にならない限り、彼らの努力を不当に搾取することになる。そんなのはごめんです。未来に顔向けできない。心から恥ずかしく思います。

自分は、100年後の人たちにも胸を張れる作品を作りたい。高尚かどうかは別に気にしてなくて、別に下らなくていいのだけど、少なくともその時は必死だったと分かってほしい。そういうものだけを残していきたい。



幸せの形を考える時に、あなたのことを想う
あなたやあなたやあなたやあなた、
あなたやあなたやあなたやあなたのことを考える
側にいてくれたあなたや今はもう離れたあなた
叱ってくれたあなたや信じてくれたあなた
もう抱き締めることもキスすることもできないけれど、いつまでも大事なあなた
死んじゃったけど親友のあなた
一緒に朝まで飲んだあなた、一緒に朝まで笑ったあなた
さんざ迷惑をかけたあなた、裏切ってしまったあなた
僕を見限ったあなた、僕を認めたあなた
僕を苦しめたあなた、僕が苦しませたあなた
いつものあの道を並んで歩いたあなた
今でも尊敬するあなた、今でも大事に思っているあなた
また一緒に仕事したいあなた
あなたたちのことを考える
あなたたちが僕の幸せを形作り、変えていき、育てていく
あなたの名を呼ぶ
夜明け前、暗闇の中、道すがら、
あなたたちの名前を声に出さずに呼ぶ
僕のちっぽけな人生の中で、あなたたちは賜物
心当たりのあるあなたはどうか幸せであれ
心当たりのないあなたとは出会えることが楽しみ
生きていることがこれほどまでに驚きと喜びに満ちて
この大地に立っているだけで嬉しい
嘘偽りなく、この世界は素晴らしい
うまくいかないこともあるけど、あなたたちがいるから
それで良かったと思う



いつも同じことを言って、繰り返し変わらぬことを主張して、その中でちょっとずつ変化が見られるのが面白い。自分は見下げ果てた人間だと分かりながら、世間との認識に相違が生まれていくのも面白い。誰も僕の本当を知らないが、僕も世間の見る僕のことをずっと知ることはできない。その不可逆性がいつもいつまでも面白い。

もしも願いが叶うのであれば、僕の願いは叶えるなと願う。ひっくり返して見せるから。





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