Love,Lights,morning.

どうも、須貝です。

なんと、年が明けて2回目の投稿です。筆無精もここまでいくといかん。申し訳ありません。先に言いますけど、今回もいつもに輪をかけて長く書くと思います。覚悟して、1週間くらいかけて読んでいただきたいです。


さて、ご挨拶遅れました、ピヨラボ『リバース、リバース、リバース!』無事終わっておりました。2ヶ月前に。
そして、Mo’xtra produce『グリーン・マーダー・ケース』も無事終演いたしました。こちらは2週間前に。
ご来場くださった皆様、応援してくださった皆様、本当にありがとうございました。

『この町に手紙は来ない』の辺りから感じていたのですが、自分のやりたいこととやれることと書きたいことと書けることのバランスが今、物凄い勢いで噛み合い始めている気がします。今まで同様に苦しんではいるのですが、いやむしろ難しいことに挑戦し続けているので困難は増しているのですが、できあがるもののクオリティが高くなっている。これは純粋な喜び、ありがたい実感です。


そして、次回作品のページが更新されております。要チェックですぜ。出演が5月に、演出が7月、8月にございます。今さらっと言いましたけど、結構忙しいですね。秋冬は多少空いてますよ。

5月は久々のオーストラ・マコンドー。ロシア革命をやります。脚本は劇団チョコレートケーキの古川健さん。僕は主人公チームの一員ですので、ガツっとお芝居している須貝が観たい!という人は必見。歴史に興味のある人もない人も楽しんでいただけると思います。でもちょっとだけ調べて来たらすんなり楽しめるかも。総勢35人で躍動いたします。ご予約は下記URLから!

http://ticket.corich.jp/apply/82125/016/

で、7月は劇団競泳水着の上野友之さんの脚本を演出します。出演者がこれまたいいんですわ!やっとお仕事できる!の方々や、うおー興味止まんねえ!の方々と、名作『りんごりらっぱんつ』を再演です。リライト入りますけど、骨子は生きてます。お楽しみに。

そして8月は野生児童さんの演出。ワークショップで知り合った流れからまさか本当に一緒に仕事するとは思いませんでしたが、有田杏子さんの脚本を演出します。野生児童の主宰さんで、劇団鹿殺しの劇団員ですよ。こちらも出演者は個性派揃い。オーディションから立ち会いました。楽しかったぜ。四谷怪談をやるので、お祓いはちゃんとしなければ…。皆怪我なく無事に終えられますように…。演出家の仕事は役者に怪我をさせないことに尽きると思ってます。後は最後まで足掻くこと。


じゃ、そろそろ色々話しましょうか。



前述の『グリーン・マーダー・ケース』、ありがたいことに満員御礼でございました。モノフォニとは微妙に違いますけど、自分の企画としては最大動員でした。多謝。期間中からもっと大きな劇場で、もしくは長い期間でと、たくさんのご要望をいただきまして、心苦しいことではございますが、当日券のために並んでいたお客様にお帰りいただいたりもして、これは是非再演しなければと。出演者にも本当に助けてもらいました。

作品を書く際のテーマというか、キャラクターの葛藤や行動の方向性というものがなんとなくあって、大体僕の場合それは「取り返しのつかなさ」なんですね。これは多分色んなところで何度も書いてると思うのですが、命ですとか、時間ですとか、出会いや別れですとか、そういう、取り返しようのないものを振り切ったり、またはそれに引き摺られたり、そうやって人は生きているものと、人生哲学というほど大袈裟ではないのですが思っていて、どのキャラクターに関しても、「彼、もしくは彼女は何を失ったのか。そしてそれを果たして彼、もしくは彼女は取り戻したいのか?もう一度向き合えるのか?どうでもいいと思っているのか?またはそう思おうとしているのか?実は何よりも大事に思っているのか?」なんてことばかりを考えています。

ですから自然、傷付いた、ある意味では傷を負っていると言える、そういう人にばかり興味がいく。そういう人ばかり出てきます。

『リバース、リバース、リバース!』が顕著にそういう話で、生み直しの話だったんですが、死んだはずの友達が死んだ時と全く同じ姿形で生きていて、記憶もちゃんと残っている。実は別の母親の体を通して生み直されていた。取り返しのつかなかったはずのものが取り返せてしまった時、私たちはどうなるんだろうと、そういう興味からスタートした話。そして自分なりに、一つの答えに辿り着けたような気のした作品です。

『グリーン・マーダー・ケース』もある意味では取り返せないものの話だと思っていて。取り返せないというとちょっと違うかもしれないんですけど、ざっくり言えば、私たちがこの世界に生まれ落ちてしまったこと、その変えようのない事実をどう受け入れるのか?ということが根っこにある。

作中にも上演台本の冒頭にもある「人生はやはり一つの祝福だ たとえ君が祝福できないとしても」という断定はその答えに対する一つの指針なんです。私たちは、「私たちが生まれなかった」という状態を取り返すことはできない。例え自ら死んだとしても、私たちが存在した事実を無にすることはできない。例え呪うべき出自であったとしても、その奇跡と厳然たる事実は祝福されるべきなのだろうと、そういう孤独な割り切りが作品の底に流れている。

原作にはないオリジナルキャストであるエマ・ヒュースという女は、祝福という発想があるかは分かりませんが、生まれたからには生ききろうとしているように思われます。
別の話ですが、自分の中で彼女は「運命」の象徴で、時に無慈悲で唐突で残酷なのですが、またある時にはそれがそうあって然るべきと思われるような、そういう女。彼女は決して他の誰かを羨まない。与えられたカードを最大限に利用している。取り返せないものはあっさり捨てるが、その代わり別の何かをきっちり奪って補っている。でもふと、ある瞬間に、ほんの少しの間だけ、取り返せなかったもののことを想う。その時彼女は極めて人間的に見える。そういう瞬間がとても美しいなと思います。

もう一人のオリジナルキャスト、サイモン・ブレイは「無力」の象徴です。彼の無力というよりは、人間の無力の象徴だと思っていて、取り返しのつかないことの目の前で立ち止まっている我々を体現した人だと、僕は勝手に思っています。彼に関してはでも、どう解釈するかはお客さんの自由裁量に委ねられていると思っています。どちらにしろ彼はずっと人間であり続けていて、それも美しい。愚かな我々が生きることを許されるこの世界は、一体何を考えて横たわっているのだろう。



この話の流れで。作品を書く上であまりルールを増やし過ぎないようにと思ってはいるのですが、いくつかの指針があります。「奇跡が起こっていること」、「超越していること」、「登場人物が全員最善を尽くそうとしていること」、「予め用意したプロットがあったとしても、登場人物がそれを拒否した場合、潔くそれを捨てること」、「でもラストは変えないこと」、などなど。

「超越していること」、ってのが一番分かりにくいと思います。僕もよく分かってないかもしれません。例えば設定とかキャラクターとかそういうもののどこかが、という程度なんですが、日常から離れていること、であったり、強いストレスがかかっていること、であったりします。物語が物語になるための強度と言い換えてもいいです。この世を越えていることが大事なんです。別にSFとかそういうことでなく。



いい台詞は経験を積めばそこそこ書けると思います。大事なのは、訪れる沈黙が最も雄弁な台詞になるように、他の台詞で登場人物を誘導してあげること。そこまでできれば後は勝手に登場人物たちが歩き始めます。



仕事がしにくいなあと思う種類の人がいて、第一声がマイナス発言から始まる人。こちらのやりたいことやイメージを伝えて、それに対する返答がまず「でも」や「できません」で始まってしまうと、あっという間に次に進めなくなる。これは困ります。どの職種でもそうだと思いますが、特に我々のようなクリエイティブワークでは厳禁かなと。

経験上、若い人に多い気がします。これは多分今の世代の人が悪い、ということではなくて、あらゆる時代の25~28歳くらいの年齢で起こり得ることじゃないかなと思う。自分もそうだったと思うし。ある程度経験を積み、実績も多少あり、後輩もでき、先輩との繋がりも増えて、自我が芽生え始めるとこうなるのかもしれない。いや、どの年齢でもいると思いますけど。

こちらだってもちろん、予算や空間やその他の制限があることは分かっていて、その手綱を握ってもらうことを求めてはいるんです。が、こちらのやりたいことを実現してもらうために雇っているわけだから、それを汲む、具現化する気持ちではいて欲しい。
お世辞を言えとかイエスマンが欲しいとかそういうことではなく、クライアントの希望を実現する前向きさがあった方がいいし、できないとしても建設的な代替案を提示して欲しい。30歳越えてそういうタイプの人が減るのは、結局そのタイプの人が仕事を失っているから、もしくはこれではダメだとどこかで気付いて修正するからではないかと思います。

こちらの希望ではなく、自分の希望ややりたいことや実績の自慢の延長のプランを押し付けられるのも嫌だなあと思います。これは逆に30歳以上に多いかもしれない。



Twitter上で流布される意見や感想というのはあくまで限定的な範囲での話で、タイムライン上の全員が一致した意見を言っていたとしても、そもそも自分の好みでフォローしたりされたりしている関係性の中での交流なわけだから、それが全員の意見であると錯覚するのは陥りやすい過ちのようが気がします。その他の人や世界を想像しなければならないのではと。対立意見を持つ人たちがTwitterをやっていなかったらそもそも、意見交換できてないわけじゃないですか。

っていうかTwitterの主なユーザーはアメリカ人と日本人なわけだから(アメリカ25%、日本が10%、3位がインドネシアで6%だそうですよ。意外)、その時点で世界の意見ではないと思うし。日本に限定しても、月間のアクティブユーザーが1500万人程度らしくて、つまりはたかだか10分の1の日本でしかない。

Twitterで政治的な話をしたくない理由の一つにその辺の感覚があって、自分の仲間たちに注意を喚起するという目的はあるかもしれませんが、「~はおかしいだろ」という批判を僕ら向けに発信されたところで、で、実際君はどうするんだい?と思っちゃうんですね。
別にするなとは言わないんですけど、同時に例えば、「~がおかしいと思ったので、~議員と会見して意見交換してきました」とか、「~は成立させてはいけない法律だから、弁護士の方数人とグループを作って意見書を作成しました」とか、そういう報告があったら「おぉ!」と思うんですよ。行動が伴わないことに賛成しようが反対しようが世界は大して動かないような気がする。

分かりやすいのでTwitterの話をしましたが、SNSはね、どれもこういう側面はありますよね。



今回のタイトルに特に意味はないんですけど、こういうタイトルの連作短編がやりたい。二人組の朝という縛りで、恋人とか夫婦とか親子とか友達とか、色んな朝の情景を描いてみたり。2時間半のお芝居をやったせいか、今短編欲がふつふつと湧いてきています。



最近は毎日稽古しています。『祖国は我らのために』、疲れる芝居ですが、観劇後の爽快感マックスを目指して日々精進いたします。

先日テレビで伊達公子さんが仰っていて、いたく共感した言葉に、「できないことがあるから面白い」というものがあって、歳を取ってできないことは増えたけど、その代わりに手に入れたものにそれ以上の価値を感じたり、違う何かで補えていたり、昔より優しくなれていたりすると、失ったものよりも得たものに目が向き、健全だなと思います。

誰かに誇れる生き方をしてきたかと言われれば疑問があるし、もちろん聖人君子ではないし、悩みながら間違いながらちょっとずつしか進めない毎日を送っているけど、それでも僕は最善を尽くしているし、胸を張って生きられるように目を真っ直ぐ前に向けて歩いているし、そう感じられた時に、過去の自分に対しては少しだけ、今の自分を誇れる。

僕は今まで誰かに希望をもらってきて、目標にしてきて、頼らせていただいてここまでやってこれたから、今度は僕が誰かの希望になり、目標になり、頼ってもらえるように、カッコよく生きたい。



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